プロローグ:コーヒーベルト最北端の奇跡
青い海と白い砂浜、鮮やかなハイビスカスが咲き乱れる南国の島、沖縄。この亜熱帯の楽園が、実は日本で最初にコーヒー栽培が行われた地であることを、どれほどの人が知っているだろうか。
北緯24度から28度に位置する沖縄は、コーヒー栽培に適した「コーヒーベルト」の最北端に位置している。赤道を挟んで北緯25度から南緯25度の間で栽培されるコーヒーにとって、沖縄は限界地帯であり、同時に可能性に満ちた場所でもあった。
この物語は、明治の開国から150年近くに及ぶ、沖縄とコーヒーの知られざる歴史である。
第一章:明治の野心〜112本の苗木
時は1875年(明治8年)12月。琉球藩(現在の沖縄県)の港に、一艘の船が到着した。船倉には、遠くオランダ領インドネシアから運ばれてきた112本のコーヒー苗木が積まれていた。全7品種、最も多い品種は60本。コーヒー以外にも、オリーブやタマリンドなど熱帯植物が計180本運ばれてきた。
この壮大なプロジェクトの立役者は、明治政府の榎本武揚であった。箱館戦争で幕府側として戦い、のちに明治政府で農商務相や文相を務めた榎本は、日本の近代化と産業振興に情熱を注いでいた。彼は琉球の温暖な気候に着目し、コーヒー栽培の可能性を見出したのである。
当時の日本各地では、海外植物の試験栽培が盛んに行われていた。東京の新宿御苑は「新宿試験場」として、港区には「三田育種場」が設けられていた。明治政府は、西洋列強に対抗するため、あらゆる産業の近代化を急いでいたのだ。
琉球藩に運び込まれた112本のコーヒー苗は、首里の各所に植えられた。その中には、現在世界文化遺産に登録されている識名園も含まれていたと言われている。琉球最後の国王、尚泰もコーヒー栽培に関与したという記録が残っている。
農学者の河原田盛美は、政府から琉球藩内務省出張所へ出向し、「コーヒーの苗木を含む熱帯植物が移植後、沖縄で順調に育っている」と政府に報告している。この記録は、日本におけるコーヒー栽培の歴史を塗り替える発見となった。
従来、日本で初めてコーヒーが栽培されたのは1878年の小笠原諸島とされてきた。しかし、2024年に雑誌「四季の珈琲」編集責任者の空閑睦子氏が明治時代の文献を発掘し、沖縄が小笠原より3年早くコーヒー栽培を開始していたことが明らかになったのである。
第二章:琉球士族の挑戦〜本部半島への移植
1879年3月27日、琉球藩は廃止され、沖縄県が設置された。いわゆる「琉球処分」である。450年余り続いた琉球王国は終焉を迎え、多くの琉球士族が職を失った。
困窮した士族たちは、新たな生計の道を求めて首里から沖縄北部へと移住した。その際、彼らは首里に植えられていたコーヒーの木を持って行ったという。
特に本部半島の本部町(伊豆味)と今帰仁村(呉我山)には、多くのコーヒー栽培の文献記録が残されている。この地域は岩山(円錐カルスト)が多く、沖縄随一の台風に守られるエリアだった。また大井川の源流域で水が豊富で、比較的寒暖差のある環境は、果樹栽培の適地であった。
明治中期以降、この地域には様々な植物が集まり、県内最大規模の試験農場地帯となっていく。琉球最後の国王の末裔である尚順も、ハワイから珍しいコーヒーの種を入手し、栽培を試みた記録が残っている。
しかし、当時のコーヒー栽培は小規模なものに留まった。理由は明白だった――需要がなかったのである。コーヒーは「期待の星」として導入されたものの、換金作物としては難しく、脇役的な存在となっていた。のちに沖縄北部で主役となっていくのは、パイナップル、お茶、かんきつ類であった。
本部町伊豆味地区には、19世紀ごろに植えられたとみられる古木が今も残っている。樹齢100年以上とされるこの古木は、沖縄コーヒーの歴史を静かに見守り続けている。
第三章:昭和の試み〜キーコーヒーの挑戦
時代は昭和へと移る。1934年(昭和9年)、木村珈琲(現在のキーコーヒー)が沖縄にコーヒー農場を開設した。これは、日本の民間企業による本格的なコーヒー栽培への挑戦であった。
しかし、この試みも長くは続かなかった。沖縄の最大の敵は台風だった。コーヒーの木は風に極めて弱く、一年に何度も襲来する大型台風によって、木々は倒れ、葉は吹き飛ばされた。経済的な採算性を確保することは困難を極めた。
それでも、コーヒーへの夢は途絶えることはなかった。戦後、沖縄でのコーヒー栽培の祖となる人物が現れる。和宇慶朝伝(わうけちょうでん)である。
第四章:ブラジルからの贈り物〜和宇慶朝伝の物語
1972年、沖縄がアメリカから日本に返還された年。一人の男が、遠いブラジルから故郷沖縄へと帰ってきた。その男の名は和宇慶朝伝。彼の手には、ブラジルで譲り受けたコーヒーの種が握られていた。
和宇慶は、沖縄からブラジルへ移住した移民の一人だった。19世紀から20世紀にかけて、多くの日本人がブラジルへ渡り、コーヒー農園で働いた。ブラジルは世界最大のコーヒー生産国であり、移民たちはコーヒー栽培の技術と知識を身につけた。
和宇慶が持ち帰った種は、うるま市に植えられた。沖縄の気候、土壌、そして台風という過酷な条件の中で、彼は試行錯誤を重ねた。どのように木を育てるか、どのように台風から守るか、どのように実を収穫するか――すべてが手探りだった。
やがて、和宇慶が育てたコーヒーは「ニューワールド1号」「ニューワールド2号」と名付けられた。これらの品種は、沖縄の風土に適応し、現在沖縄各地で栽培されているコーヒーのほとんどは、和宇慶が育てたこの品種の系統である。
和宇慶の功績は、単に品種を確立したことだけではない。彼はコーヒー栽培の普及に尽力し、多くの後進を育てた。その教え子の一人が、恩納村で沖縄の風土に適した栽培方法を確立した山城武徳(ぶとく)である。
和宇慶は「沖縄コーヒーの父」として語り継がれている。今でも多くの沖縄コーヒー農家で、和宇慶のコーヒーが大切に育てられている。
第五章:夢を追う人々〜1990年代から2000年代
1993年、和宇慶の教えを受けた足立浩志(通称ヒロさん)が、東村にカフェを併設した「HIRO COFFEE FARM」をオープンした。これは、沖縄コーヒーを観光資源として提示する先駆的な取り組みだった。
しかし、当時の「沖縄産コーヒー」というと、物珍しさで売るもの、あるいは希少なお土産といった域をなかなか出なかった。味や農産物としての安定性は二の次だった。「国産」という言葉の響きは魅力的だったが、品質面での評価は厳しかった。
台風という自然災害に加えて、カイガラムシなどの害虫も大きな問題だった。農薬を使わない栽培を目指す生産者たちは、害虫との戦いに苦しんだ。収穫量は不安定で、多くの生産者が趣味の延長線上でコーヒーを育てていた。
それでも、夢を諦めない人々がいた。
第六章:革命の始まり〜ADA FARMの挑戦
2008年、沖縄本島北部のやんばる、国頭村安田(あだ)で、一組の夫婦がコーヒー農園を始めた。徳田泰二郎と優子夫妻である。
優子さんは振り返る。「17年前に沖縄に移住したときは、まさかコーヒー農園をやるとは思わなかったんです」
夫妻は、ヒロさんから苗を譲り受け、防風林が整った土地にコーヒーを植えた。しかし、最初はコーヒーを「やってはいけない作物」だと思っていたという。それほど栽培は難しく、リスクが高かった。
しかし、試しに植えてみたコーヒーの木の姿は、とても魅力的だった。2009年、ヒロさんが亡くなる直前、夫妻はコーヒーだけでやっていく決意を固めた。まるでバトンを渡されたかのように。
泰二郎さんは言う。「観光目線の”沖縄産”をウリにしたくはなかったんです。珍しいけど、あんまり美味しくないよねって言われたら悔しい。やっぱり美味しいから飲みたいって思われたかった」
彼らは、収穫した豆を自分たちで焙煎し、コーヒー業界のトップともいえる様々な専門家のところへ持って行った。しかし、応援はしてくれるものの、豆の品質に関してはあまりいい反応を得られなかった。
「心の中ではなにくそーって思ってましたけど(笑)」と優子さん。「沖縄がなぜコーヒーの名産地として挙げられないのか。私たちはどうしたらいいのか。明確な課題がいっぱいあることが分かりました」
夫妻は、生産から精製まで、すべての工程を見直した。収穫のタイミング、発酵の管理、乾燥の方法、選別の基準――細部にまでこだわり抜いた。
そして、彼らは沖縄コーヒーの「国産の壁」を初めて破った。ADA FARMは、日本で初めてスペシャルティコーヒーの認定を受けた農園となったのである。
スペシャルティコーヒーとは、品質の高さ、風味の個性、そして持続可能な生産方法が認められた最高級のコーヒーのことである。ADA FARMのコーヒーは、「すごくシャイな豆」と評され、「高級なお出汁みたいに優しく澄んだ感じ」だという。
第七章:新世代の躍進〜2010年代から現在
ADA FARMの成功は、沖縄コーヒー業界に大きな希望をもたらした。「国産コーヒーでも、世界基準の品質を達成できる」――この事実は、多くの生産者を勇気づけた。
2010年代以降、沖縄でコーヒー栽培に挑戦する人が急増した。沖縄本島南部の糸満・南城市から北部の国頭村まで、また久米島、宮古島、石垣島など、各島にコーヒー農園が点在するようになった。2025年現在、県内のコーヒー栽培生産者は70件以上に達している。
2013年には、名護市にパイオニア的な農園として中山コーヒー園が設立された。約1万坪(3.3ヘクタール)という、沖縄では珍しい大規模な農園である。岸本辰巳さんは、「沖縄を感じるきっかけを作りたい」との思いで、コーヒー生産に取り組んでいる。
2019年には、ネスレ日本とサッカー元日本代表の高原直泰さんが率いる「沖縄SV」が協業し、名護市・琉球大学と連携して「沖縄コーヒープロジェクト」を開始した。耕作放棄地などを活用し、大規模な国産コーヒー豆の栽培を目指す取り組みである。
2021年には沖縄県立北部農林高等学校とも連携し、若い世代にコーヒー栽培の魅力を伝える活動も始まった。将来を担う若い人たちが、沖縄の一次産業の未来を切り開いていく。
しかし、課題も多い。台風は今なお最大の敵である。2023年8月の台風6号の被害により、2023年冬から2024年春にかけての生豆の収量は、前年より約40%減少した。2024年も気候変動により寒い日が多く、収穫量は通常の30%程度に留まった。
それでも、生産者たちは諦めない。台風対策のための簡易ハウスの開発、防風林の整備、そして何より、高品質な豆を作るという情熱が、彼らを前へと進ませている。
第八章:沖縄コーヒーの未来
現在、沖縄で栽培されているコーヒーは、ほぼアラビカ種(ティピカ・ムンドノーボ種・イエローブルボン種)である。これらの品種は、沖縄の気候に適応し、独特の風味を持つ。
沖縄コーヒーの特徴は、豊かな風味としっかりとした酸味である。香りと苦みと甘みのバランスが取れており、飲んだ後に口内に残る「余韻」も素晴らしい。ある焙煎家は、「7分くらいゆっくりと時間をかけて飲んでみて」とアドバイスする。
沖縄コーヒーの価格は、1キロあたり2万円から4万円と、ブラジル産などの輸入コーヒーと比べて格段に高い。しかし、この価格は、生産者たちの手間暇、情熱、そして沖縄という土地の価値を反映したものである。
喫茶店では、1杯10グラムで2000円という価格で提供されることもある。「所詮、嗜好品だ」と軽んじられることもあったが、「コーヒーを飲んで涙を流して喜んでくれる人もいる」と生産者は語る。
沖縄コーヒーは、単なる農産物ではない。それは、150年近い歴史の結晶であり、多くの人々の夢と努力の結晶である。明治の榎本武揚から、琉球士族たち、和宇慶朝伝、そして現代の若き生産者たちまで――すべての人々の想いが、一杯のコーヒーに凝縮されている。
エピローグ:コーヒーの花が咲く島
春、沖縄のコーヒー農園には白い花が咲く。ジャスミンのような甘い香りが、やんばるの森に漂う。生産者たちは、この花を集めてコーヒー花茶(フラワーティー)を作る。
冬には赤い実が実る。生産者たちは一つ一つ丁寧に手摘みし、果肉を取り除き、発酵させ、乾燥させる。この果実部分はカラカラティー(果実茶)として楽しむこともできる。
コーヒーの木は、捨てるところがない。すべてが価値を持ち、すべてが愛されている。
沖縄は、コーヒーベルト最北端の島である。霜が降りることはほとんどなく、年間を通じて温暖な気候が続く。しかし、台風という試練が待ち受けている。
それでも、生産者たちは言う。「この土地だからこそ、このコーヒーができる」と。
沖縄コーヒーの物語は、まだ続いている。新たな生産者が増え、技術が向上し、品質が高まっている。いつか、沖縄コーヒーが世界に認められる日が来るかもしれない。
しかし、それ以上に大切なことがある。それは、一杯のコーヒーを通じて、沖縄の自然、歴史、文化、そして人々の想いが伝わることである。
コーヒーの花言葉は「一緒に休みましょう」。
沖縄のコーヒー農園で育った豆で淹れた一杯のコーヒーを手に、ゆっくりと時間をかけて味わう。そこには、150年の歴史と、無数の人々の夢が溶け込んでいる。
青い空、緑の森、そして赤いコーヒーの実――これが、沖縄コーヒーの風景である。
参考文献
- 空閑睦子「国産コーヒー栽培史に関する研究」『四季の珈琲』
- 河原田盛美『琉球備忘録』(1875年)
- 一般社団法人沖縄コーヒー協会資料
- 沖縄タイムス「国産コーヒーの発祥地は沖縄だった」(2024年4月7日)
- 各種コーヒー農園への取材資料



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