スペシャルティコーヒーの歴史:革命を起こした人々の物語

プロローグ:1960年代のアメリカ、最悪のコーヒー時代

1960年代のアメリカ。世界で最も豊かな国が、世界で最も不味いコーヒーを飲んでいた時代がありました。

スーパーマーケットの棚には、真空パックされた缶入りコーヒーがずらりと並んでいました。フォルジャース、マックスウェルハウス、ヒルズブラザーズ。これらの大手ブランドは、価格競争に走り、安価なロブスタ種の豆の比率をどんどん高めていきました。結果として生まれたのは、薄く、酸化し、ほとんど味のない液体でした。

当時のアメリカ人は、インスタントコーヒーと淹れたてのコーヒーの味の区別がつかないほどでした。なぜなら、どちらも同じように不味かったからです。

しかし、この暗黒時代に、コーヒー革命の種が静かに芽吹き始めていました。

第一章:オランダからやってきた男、アルフレッド・ピート

1920年、オランダのアルクマールで生まれたアルフレッド・ピートは、父親が経営する小さなコーヒー焙煎店で育ちました。第二次世界大戦後、彼はロンドンでトワイニング社での修行を経て、インドネシアで紅茶鑑定士として働きました。

そこで彼は、深煎りのインドネシアコーヒーの濃厚な味わいに恋をしました。濃く、オイリーで、香り高い。ヨーロッパで当たり前のように楽しまれていたコーヒーの真の姿を、アメリカの人々に届けたいという夢を抱くようになったのです。

1955年、ピートはサンフランシスコに移住しました。コーヒー輸入会社で働き始めた彼は、愕然としました。アメリカのコーヒーの質の低さに。彼はそれを戦時中の配給コーヒーのようだと表現しました。

1965年、ピートは解雇されます。しかし、これが運命の転機でした。

1966年4月1日、カリフォルニア州バークレーのヴァイン通りとウォルナット通りの角に、最初の「ピーツ・コーヒー」が誕生しました。カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスのすぐ近く。当時、バークレーはベトナム反戦運動の中心地で、芸術家、作家、音楽家たちが集まる場所でした。

ピートの店はシンプルでした。最初は、焙煎したコーヒー豆だけを販売していました。しかし、その豆は革命的でした。手作業で焙煎された深煎りの豆は、当時のアメリカでは全く見られないものでした。

店の前には、詩を朗読し、マンドリンを演奏し、政治を熱く議論するヒッピーたちが集まりました。彼らは「ピートニクス」と呼ばれるようになります。ピート自身は「整然としたビジネスがしたかったのに、彼らの何人かは臭かった」と後に語っています。

しかし、口コミは広がりました。人々は、本物のコーヒーの味を初めて知ったのです。

1969年、退役軍人のキー・ディケーソンという名の男が、ブレンドのアイデアを持ってピートを訪ねてきました。二人は無数の組み合わせを試飲し、今や伝説となる「メジャー・ディケーソンズ・ブレンド」を生み出しました。ピートは、友人の名前をつけるだけでは足りないと考え、軍曹から少佐に昇進させたのです。

そして1971年、三人の若い起業家がピートを訪ねてきました。ジェリー・ボールドウィン、ゼブ・シーゲル、ゴードン・バウカー。彼らは、ピートから焙煎とブレンドの技術を学びたいと申し出ました。

ピートは快く彼らを受け入れました。そして、彼らはシアトルのパイク・プレイス・マーケットに新しい店を開きました。その店の名前は「スターバックス」。

最初の1年半、スターバックスはピーツから直接豆を仕入れて販売していました。まさに、ピーツこそが現代のコーヒー文化の父だったのです。

第二章:北極圏から来た女王、アーナ・クヌーセン

時は少し戻って1921年。ノルウェーの北極圏にある町、ボードーで一人の女の子が生まれました。アーナ・クヌーセン。

第一次世界大戦後、北欧は深刻な経済不況に陥っていました。1926年、5歳のアーナは母親と姉妹とともにニューヨークに移住しました。父親は先にアメリカに渡り、造船所で大工として働いていました。

彼らがアメリカに到着したのは、大恐慌の直前でした。アーナは、アメリカに来るまでリンゴを見たことがなかったと言います。ブルックリンとクイーンズで過ごした幼少期。イタリア系移民の隣人たちの料理の香りに包まれて育ちました。

アーナは結婚を3回経験し、娘を育てるためにウォール街でモデルとして働きました。50代になった1968年、彼女はニューヨークからカリフォルニアに移り、サンフランシスコのコーヒー界で重要な人物だったバート・フルマーの秘書として、B.C.アイルランド社で働き始めました。

当時、この会社はアメリカで最大のロブスタ種の輸入業者でした。品質よりも価格。それがコーヒー取引の常識でした。

しかし、アーナは違いました。彼女は、コーヒーの可能性を見抜いていたのです。

ある日、アーナは同僚の男性たちがカッピング(コーヒーのブラインド試飲)をしているテーブルに参加したいと申し出ました。答えは「ノー」。理由は「女性だから」。

2014年のスペシャルティコーヒー協会のイベントで、アーナはこの経験を振り返りました。「女性だからという理由でカッピングルームと焙煎室から締め出されましたが、私は彼らを出し抜きました。会社を買収して、全員解雇したのです」と、彼女は誇らしげに語りました。

しかしその前に、運命的な出会いがありました。

1970年代半ば、一人の若いインドネシア人男性が、車にスマトラ・マンデリンの袋を積んで彼女のオフィスを訪れました。本来はニューヨークのコーヒー商社に向かう途中でしたが、アーナは彼を説得して、そのコーヒーを焙煎し、カッピングしました。

女性だったためカッピングルームには入れませんでしたが、男性たちに淹れてもらったそのコーヒーを飲んだ瞬間、アーナの人生は変わりました。それは、彼女が今まで飲んだ中で最高のコーヒーでした。

彼女は直感しました。このコーヒーは、大規模な工業用焙煎業者よりも、小規模な焙煎業者に適していると。

1973年、アーナはついにカッピングテーブルに席を与えられました。彼女の評判は、カッピングルームに入る前からすでに確立されていました。

そして同じ年、ティー&コーヒー・トレード・ジャーナル誌が、小規模焙煎業者がより良いコーヒーを探しているという新しいトレンドに注目し、アーナにインタビューしました。

このインタビューで、彼女は「スペシャルティコーヒー」という言葉を初めて口にしたのです。

特定の地理的微気候で生産される豆が独特の風味を持つこと。それをスペシャルティコーヒーと呼ぼう、と。

1975年、アーナは宣言しました。「10年以内にB.C.アイルランドを買収する」と。そして1985年、会社の創業100周年の年に、彼女は本当にそれを実現し、社名を「クヌーセン・コーヒー」に変更しました。

アーナの最大の貢献は、小規模焙煎業者と働く意欲でした。彼女は、小規模焙煎業者が異なるビジネスモデルで運営されており、より良いコーヒーに対してより高い価格を支払う意思があることを認識していました。

1973年当時、アメリカのコーヒー消費量は底を打っていました。アメリカ人は、淹れたてのコーヒーとほぼ同じくらいインスタントコーヒーを飲んでいました。なぜなら、味が同じだったからです。

しかしアーナは、コードを解読しました。全国各地で「スモールトレード」(小規模業者)が、より良いコーヒーに興味を持つ消費者がいて、そのために支払う意思があることを認識していましたが、彼らが望むボリュームでコーヒーを調達するのに苦労していました。

アーナは、250袋という不完全なロットや、カリフォルニア沿岸で繁栄していた店舗への小規模卸売配送を始めました。会社が取得したものの中から高品質の商品だけを選び、高価格で販売しようとしました。

ポール・カッツ、ジョージ・ハウエル、そして多くの人々が、アーナに友人を見出しました。彼らは品質の高い豆に将来性を見ていました。

1982年、アーナは新しいコーヒー協会の設立を支援しました。彼女の焙煎業者たちです。彼らが合意した数少ないことの一つは、協会の名前に「スペシャルティ」という言葉を含めることでした。こうして、アメリカスペシャルティコーヒー協会(SCAA)が誕生したのです。

やがてアーナは自身の顧客基盤を確立し、クヌーセン・コーヒーを設立しました。クヌーセン・コーヒーからのニュースレターは、コーヒー業界でよく知られるようになりました。

インターネット時代以前、彼女は郵便とファックスでニュースレターを配布しました。アーナは、スペシャルティコーヒー運動に言語を与え、コーヒー関係者にコーヒーの産地、テイスティング用語、加工技術、業界の秘訣についてより明確な理解を提供しました。

1998年にアーナに初めて会った人は、彼女の素晴らしい笑い声を覚えています。彼女は、まるであなたがその瞬間に世界で最も重要な人物であるかのように挨拶してくれました。

アーナの会社、インターアメリカンは「75パーセントが女性」です。これは部分的に、アーナが示した模範のおかげです。

2018年6月、96歳でアーナは亡くなりました。しかし、彼女が始めた革命は、今も世界中で続いています。

第三章:第二の波、そしてスターバックスの台頭

ピートとアーナが蒔いた種は、1970年代から1980年代にかけて大きく成長しました。

ピーツで学んだ三人の若者、ボールドウィン、シーゲル、バウカーが1971年に開いたスターバックスは、当初はピーツのモデルをそのまま模倣していました。スターバックスの創設者ジェリー・ボールドウィンは、「私たちはピーツをコピーしました。店全体がアルフレッドのやったことをモデルにしていました」と語っています。

しかし、1984年に転機が訪れます。ボールドウィンのグループは、ピーツ・コーヒーを買収しました。そして1987年、彼らはスターバックスをハワード・シュルツに売却し、ピーツに集中することにしました。

ハワード・シュルツは、スターバックスを別の方向に導きました。イタリアのエスプレッソバー文化に触発され、彼はコーヒーショップを「第三の場所」、つまり家でも職場でもない居心地の良い空間として再定義しました。

カプチーノ、ラテ、フラペチーノ。これまでアメリカ人が知らなかった飲み物が、日常の一部になりました。

これが「第二の波」でした。コーヒーは単なる飲み物ではなく、体験になったのです。

しかし、規模が大きくなるにつれて、何かが失われていきました。一貫性とブランド化の必要性が、画一化を生み出したのです。

第四章:第三の波の到来、ビッグ・スリーの誕生

2000年代初頭、新しい世代のコーヒー愛好家たちが登場しました。彼らは、第二の波の画一化に反発していました。

コーヒーをもっと深く理解したい。豆がどこで育てられ、誰が栽培し、どのように加工されたのか。そして、その固有の風味をどうすれば最大限に引き出せるのか。

2003年、サンフランシスコのレッキング・ボール・コーヒー・ロースターズのトリッシュ・ロスゲブが、「サードウェーブコーヒー」という用語を記事で使用しました。これは、第三波フェミニズムをもじったものでした。

しかし実は、1999年にティモシー・J・キャッスルというコーヒーブローカーが、すでに「コーヒーの第三の波」というタイトルの記事を書いていました。

いずれにせよ、この言葉は完璧にこの動きを捉えていました。

アメリカにおける第三の波の「ビッグ・スリー」は、シカゴのインテリジェンシア・コーヒー&ティー、オレゴン州ポートランドのスタンプタウン・コーヒー・ロースターズ、そしてノースカロライナ州ダーラムのカウンター・カルチャー・コーヒーです。これら三社はすべて、ダイレクトトレード(直接取引)での調達を行っています。

インテリジェンシアは1995年にシカゴで創業しました。彼らは、ダイレクトトレードへのコミットメント、独自のブレンド、そしてポアオーバー(ドリップ)抽出法を普及させた役割で知られています。

スタンプタウンは1999年にポートランドで生まれました。コロンビア、グアテマラ、エチオピアなどの国々のコーヒー農家との長期的なパートナーシップを確立しました。彼らは、ケメックスブルワーを自社のカフェで普及させることに貢献しました。

カウンター・カルチャーは1995年にノースカロライナ州ダーラムで設立されました。透明性、持続可能性、教育への献身で知られています。バリスタは、コーヒーの歴史や農学から感覚分析や抽出技術まで、すべてをカバーする厳格なトレーニングプログラムに参加します。

第三の波の特徴は何だったのでしょうか?

単一農園、単一地域: もはや「コロンビア産」というだけでは十分ではありませんでした。「エチオピア・イルガチェフェ、ウォッシュド、標高2,000メートル」といった詳細な情報が求められました。

浅煎り: 第二の波の深煎りとは対照的に、第三の波は豆本来の風味特性を保存するための浅煎りを好みました。焦がすのではなく、引き出すのです。

ダイレクトトレード: 中間業者を排除し、農家と直接取引することで、公正な価格を保証し、品質を向上させました。

バリスタの技術: バリスタは単なるサーバーではなく、職人として扱われるようになりました。ラテアート、精密な抽出、カッピングスキル。これらすべてが重要になりました。

透明性とストーリーテリング: すべてのコーヒーには物語がありました。どの農園で、誰が、どのように育てたのか。

第五章:買収の時代、そして未来へ

しかし、皮肉なことに、第三の波の成功は、その独立性を脅かすことになりました。

2015年、ピーツ・コーヒーは、スタンプタウン・コーヒー・ロースターズとインテリジェンシア・コーヒー&ティーの両方を買収しました。

かつてピートが始めた小さな革命は、今やJABホールディングという巨大投資グループの一部となっていました。

これは第三の波の終わりなのでしょうか?それとも、新しい始まりなのでしょうか?

2012年、Out of Order誌は、第三の波の潜在的な衰退について記事を書きました。独立系コーヒー焙煎業者がウォール街の投資会社や企業投資家に注目されていることに疑問を呈したのです。

しかし、物語はそこで終わりません。

世界中で、新しい世代の焙煎業者が立ち上がっています。東京、メルボルン、ケープタウン、ボゴタ。コーヒー文化は、もはやアメリカだけのものではありません。

そして、生産国自身が変化しています。コロンビア、エチオピア、インドネシアの焙煎業者たちが、自国のコーヒーを自国の人々に提供し始めています。コーヒーを脱植民地化する動きです。

第四の波の話もあります。科学、持続可能性、新しい消費者の習慣を融合させた次の段階です。屈折計やAI誘導抽出機を使用した精密抽出。再生農業とカーボンニュートラル焙煎。家庭での焙煎や栽培。

エピローグ:一杯のコーヒーに込められた革命

今、あなたがカフェで一杯のコーヒーを注文するとき、その背後には60年以上の革命の歴史があります。

アルフレッド・ピートは、アメリカ人に本物のコーヒーの味を教えました。彼は「アメリカ人にコーヒーの飲み方を教えたオランダ人」と呼ばれています。

アーナ・クヌーセンは、ガラスの天井を打ち破り、小規模焙煎業者に道を開き、そして「スペシャルティコーヒー」という言葉を世界に贈りました。

彼らの情熱と執念が、産業全体を変えました。

スペシャルティコーヒーは、単なる高品質なコーヒーではありません。それは、公正さ、透明性、持続可能性、そして何よりも、コーヒーに関わるすべての人々への敬意を意味します。

農園で働く人々。豆を運ぶ人々。焙煎する人々。淹れる人々。そして、飲む人々。

一杯のコーヒーは、世界をつなぐのです。

アーナ・クヌーセンは93歳で引退する前、2014年のイベントでこう言いました。「なんて素晴らしい人生でしょう。本当にありがとうございます。スリリングな人生でした」

2007年、アルフレッド・ピートはオレゴン州アッシュランドで亡くなりました。87歳でした。

2018年、アーナ・クヌーセンは96歳で亡くなりました。

しかし、彼らが始めた革命は終わっていません。

世界中のカフェで、バリスタたちが丁寧にコーヒーを淹れています。農園では、農家たちが愛情を込めてコーヒーの木を育てています。そして焙煎所では、焙煎士たちが豆の声に耳を傾けています。

次にコーヒーを飲むとき、少し立ち止まって考えてみてください。

この一杯ができるまでに、どれだけの人々の情熱と努力があったのか。そして、この一杯が、どれほど革命的なものなのか。

スペシャルティコーヒーの物語は、まだ続いています。そして、その物語の次の章は、あなたが書くのかもしれません。

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